本物のフライ

ma-jan2005-10-27

奴と俺、どちらかがカニ…偽りのフライ

♪エビフライは美味しいのに、どうしてカニフライは食べづらいの? (マリーベルの主題歌の節で)。マリーベルといえば中嶋美智代中嶋美智代といえばロッテのサブローの奥さん。というわけで、マリーンズファンの皆様、優勝おめでとうございます。

私の中で溜息をほどく、アンテナは生きている

久しく日記は停滞しているけれども、麻雀の未来アンテナ(通称マミアナ)は生きている。表立って言うことでもないが、私はマミアナを、麻雀サイトの情報源として一級品だと自負しているので、更新されていない間はそちらでお楽しみください。

『渇きのセイ』2巻を読んだよ。

8月ぐらいにmixiの日記に書いた漫文を、今ごろ引っ張り出して公開してみる。というのも、「近代麻雀」に連載中の「哭きの竜外伝」に、『渇きのセイ』に出てきたサチと思しき人物が出てきているから。少し書き足したい部分もあるので、それは今週末あたりに。

哭きの竜』の特殊性

『渇きのセイ』2巻(能條純一)(完結)読了。
麻雀マンガ読みとして、看過できない1冊だった。


哭きの竜』本編に対する私の評価をまとめると、「麻雀マンガに初めて垂直軸を打ち立てた作品」ということになる。垂直軸とは、神につながる軸という意味で、竜が神のミコトモチ、代弁者であるということ。
竜のアガリは神がかりであり、人間には踏めない手順を取る。どうして777888から9を3回鳴くのか。効率的でもない。点数が高くなる訳でもない。 "哭き"は奇蹟の一種ではあるが、その秘密に焦点が当たることはない。
竜をめぐって、ヤクザが殺し合いを繰り広げたりするのは、神様の力を手に入れようとしてるから。(余談だが、「花引き」の初期のテーマもこれと類似している。小池一夫はずっと前からこのテーマ〈血筋・遺伝子レベルでの天才〉を扱っているので、もしかすると関連するのかもしれない。)


それまでにも、超自然的な力によって勝利する麻雀マンガというのは数多くあった。しかしそれは、殺された友人の恨みであったり、残してきた彼女の愛だったり、要するに主人公の事情と必ず連携していた。
私の読んだ範囲の麻雀マンガで、竜が初めて、神様と直接リンクしている。


これによって可能になったことは2つある。
1つは、「麻雀とは4人の対決するゲームであるのに、物語では2人しか描けない」ジレンマの解消。
もう1つは、社会的状況を超えた、ある普遍性の獲得。


前者は、「全ての対決が、最後は1対1にならないと収まりが悪い」という物語そのものの性質にかかわる。
ノーマーク爆牌党』は、4人でやる麻雀を描いた空前絶後の傑作であるが、8巻〜9巻の前半、5人がそれぞれ見せ場を作る場面の豊穣と比べて、鉄壁と爆岡の対決に絞られる最終局面は、やはり何か物足りない。
そして『ノー爆』以降、片山まさゆきは4人を同時に描く行為をほぼ放棄している。
哭きの竜』はこの問題を、ほぼ絶対者としての竜を確立することで超越した。
そもそも竜とヤクザたちの対局は、勝負と呼べる代物であったか? 後づけのような感想になるが、私は竜が負けると思って作品を読んだ覚えはない。


後者は、主人公が性格を持たないことで可能となった。
麻雀マンガの主人公や登場人物は2つの必然が求められると思う。
内的必然、つまりなぜ麻雀をやるか、どう生きるか、および外的必然、つまりなぜ強いか。
私が最も好きな麻雀マンガ『よんぶんのさん』(ほんまりう)はこの2つを素晴らしい強度で描いているが、それ故に、発行された当時の状況に縛られている(この場合の状況とは、読者の思い描く理想像、といった曖昧なものも含んで。)
今あれを面白いと言う10代は殆どいないのではなかろうか。
ここでも竜は、人格を持たないことで古びることを免れている。当時の読者の脳裏には、山口組VS一和会の抗争のイメージが浮かんでいたはずだが、この作品中の抗争は、どこか形而上的でもあり、普遍的な対決として昇華されていると見ていい。

『渇きのセイ』で描かれた麻雀

えらく前置きが長くなったが、最近の能條の麻雀、つまり『渇きのセイ』の麻雀はどうだったか? まだ考えがまとまらないが、荒っぽく言うと、
「神の代弁者はもはや存在せず、登場人物たちは自分たちの思考に囚われている」というまとめになる。


主人公セイは(色々あって)殺人者となるが、その麻雀の腕を見込まれて代打ちをすることになる。そこでセイは、敵である中国人・陳からハイテイのみでアガって勝利する。その後の陳(負けたので殺されることになっている)とセイとの会話。

陳「あのハイテイロンは…イカサマか!?それとも
  偶然か?」
セイ「偶然だ!!八萬が出た時はオレも驚いた……
   人生っておかしいよな!!偶然が…決めてしまうのか…!!
   生きる人間…死ぬ人間…
   気まぐれだよな!神ってよ」

ここには、神の意思を体現する代弁者の姿はない。神に操られている、という自覚を持つ一人のプレイヤーだけがいる。だから一見矛盾する以下の告白も、実は当然ということになる。

(セイがサチという少女に送ったメール)
「オレは殺人者だ…今も人を殺してきた」

生きるか死ぬかを決めるのは偶然かもしれないが、セイのアガリで人が死んだのは、一面的とは言え事実である。何より、セイはその事実を、自分のモノとして受け止めている。


ここでもう一つの対局が問題になる。
セイが代打ちをするきっかけは、とある裏プロと対決したことだった。
その裏プロは、九連宝燈を一度アガリ、そして再度テンパイするが、セイの出したアガリ牌をロンしようとするところで精神に異常を来たす。何故かというと、「あがったら死ぬという九連宝燈を2回もあがろうとしているから」だ。
その空々しい設定*1を抜きに考えれば、要するに彼は自分の思い込みの中にはまったのであり、しかもその思い込みは誰にも救済されない。彼はずっと狂ったままである。


もう一つ、この対局の中で、セイは四槓子をアガる。四槓子は牌をすべてさらす形であり、竜だったら閃光が4回走っているところだが、そんなことは起こらない。
裏プロは彼の待ちを四萬だと推測するが、その読みは外れており、セイのアガリ牌は自分で捨てていた二萬だった。セイはフリテンの二萬をツモアガる。
読み間違えた男と、フリテンをアガった男。 ここには何らの神秘も働いていない。齟齬があるのみだ。セイが勝ったのは、ただ単に相手の思い込みを利用したからに過ぎない。

15年後の「哭きの竜」外伝

哭きの竜』から15年を経て、能條は麻雀を上のように描いた。
その事が直ちに意味を持つものではないが、
少なくとも、現在「近代麻雀」に連載されている「哭きの竜・外伝」が
つまらないセルフ・パロディに堕しかけていることとは、
何らかの関連があると見ていいだろう。


(続く)



このエントリを、尊敬すべき雀友ヒロタシ氏(id:hirotashi)と、彼の素晴らしいコンテンツ「BS麻雀マンガ夜話」に献呈します。

*1:裏プロが九連宝燈を極端に恐れるわけがない